2011-05-27

裸のラリーズ:91年、某雑誌に掲載予定だった原稿

外まで漂うお香の匂いに陶然となりつつ、開場の時間を待ちつづけている。サウンドチェックははじまっていても、ミュージシャンが揃っていることは、まずない。そろそろかな、と思う頃に、やっとドラムが到着ということも一再ならずある。そんな時には、当然、最後の一人・・・・が到着するまで、とてつもなく待たされる。けれども常連は、じっと静かに待っている。待たされる時間がながければ、ながいほどもの凄いライヴになることを知っているから。
'83年の西部講堂では、延々40分のアンコール要求に、こたえてくれたラリーズは日付が変わるまでたっぷりと演奏してくれた。あのときはラリーズ、スタッフ側と我々との根比べだったそうだ。果てたあとには、彼らのいさぎよさに、感動し、また、うちのめされた思いがしたものだった。

中に入ると、咽かえるようなお香の煙と青みがかった美しい舞台、耳に心地よい音楽。ひんやりとした空気を肌に感じる。 暗がりにスタッフのU氏やPAのT氏の姿、グヤトーン の200ワットのリバーブシリーズアンプ、ビンソンのエコーレック、といったおなじみの器材を見出し、安心する。 たしかに、これからはじまるのだ。すべては変わりなく、おちどもなく着々とすすめられていく。そこからがまた長い、が、この時間も、まちがいなく悦楽であった。あるいは、通過の儀礼であるともいえよう、それこそなくてはならないもの。
舞台を横切る人影が、ギターを運び、整えているのがみえる。ということは今到着したのかもしれない・・・。
リハーサル無しで、あの音量というのは驚異的である。スタッフの完璧な仕事にもささえられているだろう。
ながいあいだ、繰り返されてきた歳月の重み、でもあろう。この志操、この固執、に対し粛然とさせられると同時に、畏れを抱く。たたかい、という言葉が静かに頭をよぎる。血を流しながら。
ごく稀に、サムピックを使うくらいで、あのへヴィなギターのほぼすべてを、指のみで弾く。ために、爪を割ることは幾たびもあって、文字通り血を流しつつ弦を掻く姿をみせられ、みじろぎもできない。
所在なさに、運ばれてきたギターを眺めていると、変化がみてとれることがある。それはたとえば――――
SGのペグが、クルーソンからグローバーに変わっているとか、いつものテレキャスターとピックガードの色が違うと言った些細な事であるが。奇妙な生々しさが厳かな気持ちの中に入り込んでくる。ラリーズもやはり同じ時間、同じ現実を通過しているというあたりまえのことが唐突に頭に浮かび、とまどいをおぼえる。が、伝説ではない、たしかに現在を進行している。
そして一貫して、オールド・ギターにこだわり続けているようだ。 エフェクターを駆使しているが、時折聞く事ができる本来のナマ音にそれはよくあらわれている。筆者がここ10年余りに見ただけでも、SGスタンダード、リヴァースのファイアーバードⅠ、ビグスビー・マウントの テレキャスター、ヘッドの小さいストラトキャスター、ダブル・カッタウェイのレスポール・ジュニア、黒いボディのセミアコ、すべて年代の古いものばかりである。’81年に板バネのアームから、ビグスビーのアームにつけ換えられた、ギブソンのSG std は最も信頼する一本なのか。このワイン色のギターをだき、限界まで、ときにはアームのバネがはずれるまで音をゆらしつづける姿に、日本のロックの歴史が凝縮されている。 ギター、エレクトリック・ギターの必然。クリスチャン、ヘンドリックス、おなじように、ギタリストである、日本の誇るに足る・・・・・。
エレクトリック・ギターにおける表現の究極。それを支えるセッティング。――― が、あるとき ―――
アタッチメントのトラブルがどうにもならなくなった。シールドをぬいてマーシャルに直に繋ぐ。のみならず、時間の制限を越えた為に、ハコ側が暴君的に電源を断った時には! なまの弦の響きに合わせて、マイク無しでうたい続ける。形骸化された様式などない。電気すら絶対必要というわけではなかった。シンプルに、真摯なうた、だけが残る。そういうラリーズもあった・・・・・・・。


果てしなく続くかと思われた切ない希求の時も終わり、メンバーが登場する。
―――瞬間、おとずれる闇と静謐。
――― 水谷、 水谷!―――

いきなり耳をおかす轟音。身内の底から、凄凄とした震えが湧き立つ。 あるいは、やさしいうたから、はじまる。あっという間に、いともたやすく溺れてしまう。
曲の順序は前回のライヴと密接に関わっているようにも思える。幾たびも繰り返されてきた夜が、あたかも鎖のように列なり、今日この夜の背後に続いている。

一本の蝋燭の炎が舞台の奥深くで、静かにゆらめいている。めくるめく、OHPの映像 ―――― サンボリスム
の絵画。大伽藍。ロマネスク様式の回廊。人の手が波だたせている暗い水の、生成と消長 ――――。
ひとつひとつ違和感なくはめこまれ、音と融和しているさまは、それは美事なものだ。突如としてドラムセットの後ろから放たれる7色の光芒。その哀しくなるほどに美しい色をもつ光線が、扇の形に放射され、夜を色づけ、そしてとろかしてゆくように、ゆっくりと、消えてゆく。
しだいに、耳が、身体までもが、麻痺していく。 ミラーボールの青白い光の粒が、回転しながら降り注ぐ。暗闇に目を凝らしていると、漆黒が、蒼ざめていくのが見える。
そして一切の、幻惑させられる仕掛けは、最後の曲が始まる頃には、ひとつの、黒点に収斂されていく。
―――最後の一曲 ――― 黒と白の世界。 目を射るストロボの閃光が、目に映るもの全てを、揺るがす。むらがりおこる黒い影が、白く、また黒く反転しつづける。
そして連れていかれる。大音量とは、かくも人を無力にしてしまうのか。時間の停止。“いま”が止まる。
Vivre、つまりライヴの体験することの本質はここにある。共有というにはあまりにも厳しい、孤独な、おのれがいま在ることの、認識。麻痺しつづけていながら、しだいに覚醒していく。暴力的な音圧の中で、このまま世界が終わってしまえよ、と荒々しく願う。 稲妻がおちて崩壊する塔のように。 くだけちり、灰になれ、と。

ライヴに毎回通いつめていた人々は、口を閉ざし語らずとも、皆、奇蹟を体験しているはずだ。そしてとらわれてしまっただろう。
――― 闘牛士の、凄愴な斃死が、眼前繰りひろげられると、そこにいあわせていた観衆は、闘牛の虜となり、生涯通い続ける事になってしまうというが――。
今、ラリーズは、隠れてしまい、沈黙がつづいている。 もう一度・・・・・・。いまひとたび、あの夜、あの闇を。 汲めども尽きせぬ、語り尽くせぬおもいに贅言をつくし、1篇の詩に託して、ラリーズの帰還を切に乞い願う。 


生への黒い帰還   P・J・Jouve(1937)

闇が血よりも深いものであるならば
あるいは、血が闇より深いものであるならば

それがおまえの、赤い血の極限にまで黒くあるよう
ひとが無垢なる夜のなかにはいりこむところ

空間と空間と、それから夜、ひしめきあふれ
その夜が、光を燃やすところ
その夜が、外套のなかの裸身を剥き出し
すさまじい音をたてるところ

虚無よ、夜のなかの否よ、
すべてがうまれたちあがり、あこがれるところよ


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